マリー・アントワネット王妃の人柄や名言・歴史~夫:ルイ16世とギロチン処刑された最後や、息子:ルイ17世の残酷すぎる生涯

マリーアントワネット王妃の生涯・歴史や名言等をまとめている男性-5

どーもー、先日母親に連れられて六本木ヒルズ(52F)にて開催していた「マリー・アントワネット展」に行ってきた「ゆとり」でーす(左下に写っています)

(当日の模様については・・)

→ マリー・アントワネット展に行ってきた ~フェルゼンとの不倫や首飾り事件、パンがなければお菓子の真相と子供:テレーズの美貌

僕は正直、世界史も日本史もかなり疎(うと)くて、学生時代も全然勉強してこなかったので、「マリー・アントワネット」についても、

”ヨーロッパの、なんか派手な女性の人だよねー。”

ぐらいしか記憶がありませんでした。

ただまぁ、今回こうしてわざわざ六本木まで行ってきたのも、なにかの縁だろうということで、「マリー・アントワネット」について色々と調べた上で、当記事にまとめることにしました。

  • いつの時代に、どこで、どんな環境で生きていたの?
  • そもそも、どんな人なの?
  • どんな事をやってきた人なの?
  • なんで、こんなに有名になったの?
  • なんで、ギロチン処刑されることになったの?

等々、色々と調べてまとめてみたので、ちょっと前の僕のように「マリー・アントワネットについて、ほとんど知らないけど興味ある!」って人は、ぜひ読み進めてください。

以下、目次です。

  1. マリー・アントワネット王妃の歴史年表 ~生い立ちから、夫:ルイ16世との結婚、フランス革命勃発、そしてギロチン処刑される最後
  2. 王妃の人柄や名言まとめ
  3. ルイ16世とマリー・アントワネットの子供達:4人が辿る運命 ~10歳で死んだ息子:「ルイ17世」の残酷すぎる生涯
  4. 最後に・・・六本木ヒルズで開催中の「マリー・アントワネット展」に行って、マリー・テレーズ(長女)に一目惚れしてしまった話

マリー・アントワネット王妃の歴史年表 ~生い立ちから、夫:ルイ16世との結婚、フランス革命勃発、そしてギロチン処刑される最後

ということで、まずは彼女の生い立ちからギロチン処刑までの「人生年表」について、彼女が王妃を務めた国:フランス国の情勢とともに、まとめてみました。

コレで、彼女がどういった人物なのかって事は、概ね把握できると思います。

  • 1755/11/2 : マリー・アントワネットの誕生

    父親 : 神聖ローマ皇帝フランツ1世:シュテファン
    母親 : オーストリア女大公:マリア・テレジア

    この2人の11女としてオーストリア・ウィーンのホーフブルク宮殿で誕生する。

    ちなみに、その時の名前は、「マリア・アントーニア」

    (マリー・アントワネットと呼ばれるようになるのは、フランス国の王太子と結婚してから。)

  • 幼少期

    オーストリア宮廷は非常に家庭的であり、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧したりしました。

    教育やしつけも、王族にしては厳しくなく、自由にのびのびと育てられたと言います。

    また、幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じていて、マリー・アントワネットもバレエやダンス、ハープやチェンバロの演奏を得意とした。

    オーストリア・ウィーンのシェーンブルン宮殿にて、マリア・テレジア(母親)を前にした御前演奏に招かれたモーツァルト(当時6歳)からプロポーズされたという音楽史上よく知られたエピソードもあります。

    また、マリー・アントワネットは大人になって以降も音楽を愛し、彼女自身が作曲をした、少なくとも12曲の歌曲が現存している。

    それらの曲を、『ベルサイユのばら(漫画)』の作者である、ソプラノ歌手の池田理代子が、まとめたCD:「ヴェルサイユの調べ マリー・アントワネットが書いた12の歌」を彼女(マリー)の誕生日である11月2日に発売している。

    → Amazon:ヴェルサイユの調べ マリー・アントワネットが書いた12の歌 

  • 1770/5/16 : 14歳の若さで、フランス国の王太子と政略結婚をする。

    当時のオーストリアは、プロイセン(現在のドイツ)の脅威があったために、フランスとの同盟関係を深めようとしており、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王:ルイ15世の孫:ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。

    だが、ルイ・オーギュストの父親・母親ともに結婚に反対で交渉は進まなかったが、、(1763/5)

    1765年にルイ・フェルディナン(父親)が死去し、1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。

    そして、1770年5月16日、

    マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイ・オーギュストとの結婚式がフランスのヴェルサイユ宮殿にて挙行される。

    これ以降、アントーニアはフランス王太子妃:マリー・アントワネットと呼ばれるようになる。

    (アントワネットとルイ16世との夫婦仲は、極めて良かったと言われている)

    (一方で、性格や趣味の不一致、ルイ王太子の性的不能説(マリーは結婚後7年間処女だったとか)などが原因で、あまり仲が良くなかったという説もある)

  • 1774/1 : フェルセン伯爵との出会い。

    当時、王族であるにも関わらず自由奔放だったマリー・アントワネットは、仮面舞踏会に熱中していた。

    そこで出会ったのが、フェルセン伯爵である。

    フェルセン伯爵は、スウェーデンの貴族で、初めて出会った仮面舞踏会にてお互いに一目惚れをして、その後、二人は愛人関係となり、その関係は宮廷内での専らの噂となってしまう。

    この頃のマリー・アントワネットは、毎日のようにパリのオペラ座で開催される仮面舞踏会で豪遊し、さらに賭博にも熱狂していたと言われています

    また、宝石などの装飾品や派手で奇抜なドレスなど、とにかく浪費がすごかったとして、一部の貴族達から疎まれる存在であった

  • 1774/5/10 : フランス王妃となる

    ルイ15世が死没したことで、王太子であるルイ・オーギュストが、ルイ16世に即位する。

    これによって、マリー・アントワネットはフランス王妃となった。

  • 1774年 : ルイ16世から、離宮:「プチ・トリアノン」を贈呈される。

    夫がルイ16世に即位後、夫からベルサイユ宮殿の一角(宮殿から約1kmくらい離れた場所)にある離宮:「プチ・トリアノン」が贈られる。

    これによって、マリー・アントワネットはヴェルサイユ宮殿でのストレスから逃れるように、「プチ・トリアノン」に自分だけの世界を築き上げるようになっていき、

    やがて彼女はこの離宮で、毎日のように仮面舞踏会を開催したり芝居を演じさせては、自分の気に入った取り巻きの貴族たちと自由気ままに遊び暮らすようになる。

    さらに彼女は、離宮の庭園に大きな池を掘って、その周辺には塔や納屋、風車などを建てていき、人工的に田舎村:『村落(アモー)』を作りだした。

    また、「プチ・トリアノン」は、愛人のフェルセン伯爵と関係を秘密裏に育ませる場所としても使われる。

  • 1778年 長女:マリー・テレーズ・シャルロットが生まれる。

    結婚7年目にして、待望の子供(長女)が生まれる。

    この頃から、マリー・アントワネットは母親となった事で心境の変化があったのか、賭博等の豪遊をピタッと止めており、家事・育児に集中するようになる。

  • 1781/10/22 : 長男(王太子):ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワが生まれる。

    待望の男の子であり、長男ということで「王太子」として育てられる。

    マリー・アントワネットは、子供たちから慕われる、とても優しい母親だったと言われている。

  • 1785/3/27 : 次男:ルイ・シャルルが生まれる。

    長男のルイ・ジョゼフ君が8歳にも満たない若さで死んでしまうことで(生まれつき身体が弱く、病死)、このルイ・シャルル君が王太子となり、将来的に「ルイ17世」となるが、

    このルイ・シャルル君が、おそらくフランス王族史の中で、最も悲惨で残酷な人生を送った人物である。(詳細については、後述しています。)

  • 1785年 : ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダル「首飾り事件」

    派手な生活で浪費家なイメージが世間から付いていた、「マリー・アントワネット」

    そんな彼女の名を騙(かた)った詐欺師集団による、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルが『首飾り事件』である。

    詐欺師集団は、現在の価格で数十億円という価値がある「首飾り」を、「マリー・アントワネット」の名前を使って宝石を騙し取る。

    なので、マリー自身は全くの無関係で被害者である。

    だが、そんな事実とは相反し、フランス国内ではマリー王妃の陰謀によるものとして噂になってしまい、王妃を嫌う世論が一気に強まりフランス王政が揺らぐキッカケとなった。

    事件の詳細 : ウィキペディア:首飾り事件

  • 1786/7/29 : 次女:マリー・ソフィーが生まれる。

    この子がマリーアントワネットが生んだ最後の子供です。

    なので、彼女には2男2女の4人の子供がいたわけですね。

  • 1789/7/14 : 「フランス革命」勃発

    王政に対する民衆の不満が爆発し反乱が続出、ついに「フランス革命」が始まります。

    革命の直接的な原因は財政破綻であり、マリー・アントワネットの豪遊生活や浪費癖のイメージも理由の一つでした。

    実際に民衆は、彼女の事を好き放題に国費を使っている『赤字夫人』と揶揄するようになります。

    (実際には、彼女が母親になって以降は、生活は改まっており、イメージにあるような豪遊生活はしていなかった。)

    (宮廷内で貧困者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させるといった事もしていたそう)

    だが、彼女が財政を破綻させたとしたイメージを本気で持っている民衆もかなり多く、その裏には、彼女を良く思わなかった貴族達が、マリー・アントワネットの名をひどく毀損させるような風評や、ビラを街中にばら撒いたり。といった行為がおこなわれていたそうです。

    (有名どころでいうと、宮廷を追われたデュ・バリー夫人(ルイ15世の愛人)なんかは、彼女にかなり恨みを持っていたようで、同じような貴族がしばしば同じ場所に集まって計画を立てていたとか。)

    (実際に、派手な豪遊生活をしていた頃のマリー・アントワネットは、自分の気に入らない貴族たちを宮殿から追い出すといった横暴な行動をとって、恨みを買っていたそうです。)

    結果的にこれらの噂や風評が、パリの民衆の憎悪をかき立てることとなり、

    1789/7/14

    パリの民衆が同市にある「バスティーユ牢獄」を襲撃し、決して落ちる事は無いと言われた「バスティーユ要塞」が陥落します。

    これが、フランス革命の始まりと言われ、数千とも数万ともいわれる群衆が結集し、最終的にバスティーユ全体を制圧し、牢に入れられていた7人の囚人が解放されました。

    この知らせは、直ちにヴェルサイユにいる国王:ルイ16世の元に知らされました。

  • 1789/10/5 : ヴェルサイユ行進

    こちらも非常に有名なできごとです。

    革命勃発当時のフランスでは、前年の凶作や政治的な混乱のため穀物の売り渋りが横行し、パンをはじめとする食料品の価格高騰にパリ市民は苦しんでいました。

    そして、1789/10/5の早朝、

    パリの広場に集まった約7000人の主婦らが「パンをよこせ!」などと叫びながら、国王一家の宮殿があるヴェルサイユに向かって行進を開始。

    さらに、その後を2万の市民軍が行進した。

    そして、ヴェルサイユ宮殿に到着した彼らの一部が宮殿に乱入したことから、それに続いてなし崩し的に大勢の民衆が乱入していき、宮殿を制圧。

    国王一家を拘束し、パリに連行した。

    その後、国王一家はしばらくの間、パリのテュイルリー宮殿に移り住むことになり、パリ市民に監視されながら暮らすことになる。

  • 1791/6/20 : ヴァレンヌ事件

    フランス革命が勃発して以降、多くの貴族や聖職者などの特権階級が、国王一家を見捨てた形で国外に亡命してしまう。

    革命がますます過激化をしていった事で、ルイ16世も亡命を企てる。

    マリー・アントワネットの愛人とされるスウェーデン貴族:フェルセンの助けを借りて、王妃の実家であるオーストリアへ逃亡しようと企てたのだ。

    その計画は実行に移されて、国王一家は庶民に化けてパリの脱出に成功(マリーアントワネットも家庭教師に変装していた)

    だが結局、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻されてしまう。

    この「ヴァレンヌ事件」はフランス国民に衝撃を与え、同時にルイ16世の反革命思考が暴露され、親国王派の国民からも見離されてしまうことに。。

  • 1792/8/10 : テュイルリー宮殿襲撃(8月10日事件)

    フランス革命が勃発したことで、ヨーロッパの諸外国も動きが出てきます。

    まず動いたのが、王妃の実家であるオーストリアと、プロイセン(現在のドイツ)

    この2強国が、「ルイ16世の地位を保証しないと戦争をしかける」と、革命派に圧力をかけたことで、革命派は、革命維持のために「フランス革命戦争」を起こす。

    フランス革命戦争が勃発すると、マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立った。

    これに対して、8月10日、

    革命派の民衆達は「テュイルリー宮殿」を襲撃し、マリー・アントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズ、ルイ・シャルル、エリザベート王女の国王一家を取り押さえ、タンプル塔に幽閉する。

    一時は、プロイセン軍が国境を越えてフランス領内に侵入されたが、革命派が祖国の危機を全土に訴えたことによって、義勇兵を組織して、敵軍を国境外まで押し戻した。

    一方、国王家族はタンプル塔での幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見るなど、束の間の家族団らんの時間があった。また、10皿以上の夕食、30人のお針子(はりこ)を雇うなど待遇は決して悪くはなかった。

  • 1792/9/21 : 絶対王政の廃止と、フランス第一共和政の樹立

    フランス革命は市民による反乱・暴動だけではなく、新たな政府や政治体制、制度などが確立されていった。

    その象徴が、財産や納税額によらず全ての男子に選挙権が与えられる普通選挙が制度化され、選挙によって新しい議会:「国民公会」の議員が選ばれ、

    その後、9月21日、

    「国民公会」は、王政廃止と「フランス第一共和政」の樹立を宣言した。

  • 1793/1/21 : ルイ16世の死刑執行

    革命はついにココまできます。

    フランス第一共和政府は、ルイ16世を革命裁判にかけ、国王が戦争の際に政府と国民を裏切っていた証拠が数多く提出され、1793年1月14日、国民公会は「賛成:387 - 反対:334」でルイ16世の死刑を議決した。

    (票数は、意外に拮抗していたんだね。)

    そして、1月21日、

    2万人の市民が見守る中、ルイ16世はパリの革命広場(現在のコンコルド広場)でギロチンによって処刑される。

  • 1793/10/16 : マリー・アントワネットの処刑執行

    ルイ16世が処刑された約半年後、マリー・アントワネットは1793年8月2日に「コンシェルジュリー監獄」に移送され、その後裁判が行われた。

    だが、結果は最初から決まっていた。。革命裁判所は反革命分子の代表格である彼女の処刑を欲していた。

    しかし、アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に難航。

    業を煮やした裁判所(革命推進派の者達)は、ルイ17世(アントワネットの息子)の非公開尋問(拷問・虐待)を行い「母親に性的行為を強要された」と事実無根の内容を証言させた。

    これにたいして、マリー・アントワネットは憤慨し、裁判の傍聴席にいた全ての女性に自身の無実を主張し、大きな共感を呼ぶ。

    だが結局、過去の豪遊・浪費の件や、「国王をそそのかして、ヴァレンヌ逃亡を仕組んだ」・「王政を復活させようとした」・「亡命貴族とともに国家の安全を脅おびやかす陰謀を企てた」などの罪状について問いただし、

    10月15日、彼女は革命裁判で死刑判決を受け、翌10月16日、コンコルド広場においてギロチン処刑が実行された。

    処刑時、マリー・アントワネットは、後ろ手に縛られた状態で車で市中を引きずり回された末に、わざとギロチンが見えるように顔を上に向けられて処刑されたと言われている。

    (通常、ギロチン処刑は、顔を下に向けた状態でギロチンを見ずに遂行するものである。)

    そして処刑後、執行人が彼女の血のしたたる首を掲げると、『共和国万歳!自由万歳!』という歓声が、見物人から地響きのように繰り返しあがったという。

    マリー・アントワネットの最期の言葉は、『さようなら、子供達。あなた方のお父さんのところに行きます。』だったそうだ。満37歳。
  • その後のフランス国の情勢

    ルイ16世の処刑を機にイギリス、スペイン、サルデーニャ王国なども反革命軍に加わり、イギリスを中心に「第一次対仏大同盟」が結成され、各国の軍がフランス国境を越えた。

    一方で国内では、革命政府は「30万人募兵(ぼへい)」を布告したり、下層市民の食糧危機に対して何ら政策を講じない事を宣言したことで、これらへの反発から「ヴァンデの反乱」が発生し、王党派と結びついて反乱組織が拡大していった。こーして国内情勢は不安定になっていく。

    その後、革命政府にて権力を握る人や派閥が、次々と入れ替わっていって、最終的に権力を握るのが、かの有名な「ナポレオン」である。

    こうして、革命によって生まれたフランス第一共和政は、ナポレオン独裁による「執政政府」の開始によって約10年で終わり、さらに、ナポレオンによる「フランス第一帝政」を経て、ナポレオンの失脚後にはブルボン王朝が復活する(ルイ18世による王政復古)

    (ナポレオン独裁による執政政府の開始によって、フランス革命は終結したとされる。)

    詳細 : ウィキペディア:フランス革命

以上です。

※今回、マリーアントワネットの歴史年表をまとめる上で参考にしたソース(以下)

ウィキペディア:マリー・アントワネット

マリー・アントワネット王妃の人柄や名言まとめ ~派手な髪型やドレス衣装姿の肖像画、”パンがなければお菓子”の真実

続いて、彼女自身の人柄や人物像なんかが分かるエピソードや、世界的に有名な名言である「パンが無ければ・・」の真実について、以下にまとめてみました。

  • 基本情報(体型)

    マリーアントワネットは、身長:154cm と小柄で、

    裁縫師のエロフ夫人の日誌によると、ウエスト:58~59cm、バスト:109cmだったといいます。

  • 人柄

    マリーアントワネットは、子供の頃から明るく活発でじっとしているのが苦手な子だったと言われており、それはフランス国の王太子と結婚して、その後、王妃となってからも変わらず、

    毎晩、仮面舞踏会に参加したり・オペラ座の演劇を楽しんだりといった派手な豪遊生活をしていたそうです。

    それは、派手なファッションや奇抜な髪型にも出ています。(詳しくは後述しています。)

    また、「自由」や「独立心」もかなり強いようで、普通であれば王妃である身分上、国王に生活習慣等を合わせるのですが、マリーアントワネットには、全くその傾向は無く、夫(国王)は朝型の生活をしているにも関わらず、彼女は夜型だったり、趣味や性格もまるで正反対でした。

    王族によくあるような、古いしきたりや制限なんかも、バッサリと切り捨てて、政治にも全くといっていいほど無関心で、彼女自身が介入することは一切無かったようです。

    さらに、離宮:「プチ・トリアノン」に自分だけの世界を築き上げ、自分の気に入った取り巻き達と自由気ままに遊び暮らす所なんかは、彼女の自由や独立心が象徴されています。

    ただ、子どもができて母親となったことで、家事・育児に集中し、夜型の豪遊生活も無くなり過度な浪費癖も収まったといいます。

  • ヨーロッパ各国にまでブームが広がった、ファッションリーダー

    マリー・アントワネット王妃 ドレス衣装姿の肖像画-1

    マリーアントワネットが、ここまで世界的にも歴史的にも有名になった理由の一つとして、彼女の華やかなドレス衣装姿や、派手で奇抜な髪型スタイルがあります。

    当時、彼女のそれらは、フランスだけでなくヨーロッパ各国にまでブームが広がっており、ファッションリーダーとしても非常に有名な王妃でした。

    「ロココファッションの女王」と言われていた彼女のドレス衣装は、スカートやフリルを何段にも重ね合わせて、派手なリボンをふんだんに取り付け、歩行が困難なほど派手で豪快なドレスでした。

    マリー・アントワネット王妃が着ていたドレス衣装-1

    (アントワネットの衣装代が、湯水のように国費を費やして財政破綻させたのだという悪評がたつほど。。実際はそんなことは無いが)

    そして、彼女はファッションだけでなく、ヘアスタイルでもヨーロッパ各国の注目を浴び、ブームを引き起こしていきます。

    マリー・アントワネット王妃 ドレス衣装姿の肖像画-2

    当時の貴族女性は、相手がどれだけ驚くような奇抜で斬新な盛り髪スタイルを競っていた。

    アントワネットはその中心的人物で、当初は顔の1.5倍の高さだった盛り髪スタイルは徐々にエスカレートしていき、

    頭に付ける飾りも、バラや鳥の羽根、りんご等の果物、バラを挿している花瓶、さらには庭園の模型や船の模型など、とにかく斬新で奇抜なスタイルで周囲の目を惹きつけた。

    マリー・アントワネット王妃 派手な髪型-1

    これらの奇抜な髪型は、ヨーロッパ諸国の貴族の間で大流行し、90cmもの高さに髪を盛ったり、その重さが5kgに至ることも。。

    その高さ故に、ドアから中に入れなくなったり、後ろで髪を支える使用人が必要だったりといった苦労も。

    (以下、風刺画)

    マリー・アントワネット王妃 派手な髪型-2

    ちなみに、マリー・アントワネット等の貴族の髪型が白髪や銀髪に見えるのは、セットの際に小麦粉を頭から掛けていたためである(頭だけでなく、顔にも)

    その上で、中にクッション等を入れてボリュームを出し、高く盛るように結い上げ、リボンやレース、ジュエリーなどで飾っていたのだ。

    (フランスでは、女性は色白が美人の条件といわれていた。)

  • 香水や入浴の常識を変える。

    当時、ヨーロッパ貴族が愛用していた香水は、ムスクや動物系香料といった非常に濃厚な香りのモノで、その匂いと体臭が入り混じって、かなり強烈な悪臭を放っていた。

    (当時のフランス人は、お風呂やシャワーで体を洗うといった文化が無かったため不衛生極まりない環境だった)

    そんな時期に、フランスに王太子妃として迎えられたマリー・アントワネットは、入浴の文化を流行らせ、さらにバラやスミレ・ハーブといった植物系香料から作られる爽やかな香りの香水を愛用し、やがて貴族達の間でも流行するようになった。

    (彼女が幼少期に過ごしたオーストリアでは、入浴の習慣があり毎日風呂に入って体を清潔に保っていた。)

  • マリー・アントワネットの名言

    「パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃない」

    これは、彼女の代表的な名言で、おそらく現在でも歴史の教科書に載ってるかと思います。聞いたことある方も多いでしょう。

    フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際に、彼女が発したセリフとして有名な言葉ですが、

    実はこのセリフ、マリー・アントワネットの言葉では無いことが、昨今になって判明しています。

    実際は、自由奔放な生活を送っていた彼女を妬んだ他の貴族達の作り話であり、

    実際の彼女は飢饉の人々に寄付金を送ったり、他の貴族達から寄付金を集めるなど、国民を大事に思うとても心優しい人物であったとも言われています。

    このように、現在では彼女に対する悪評は、そのほとんどが中傷やデマだったということが判明しています。

    あと、、

    彼女の他の名言としては、

    「相手にとって必要不可欠な人間になろうとしない。相手はあなたと会う前も幸福だったかもしれないし、あなたと別れた後も幸福であるかもしれません。あなたもまた、そんな人間になりましょう。そんな人間が二人でいるときに、二人とも本当の意味で幸せになれるのです。」

    「自分が愛らしいことを少しばかり忘れたら、ほんとに愛らしくなる女が世の中に多い。」

    「女心は、どんなに悲しみで一杯になっても、お世辞や恋を受け入れる片隅がどこかに残っているものだ」

    「あらゆる浪費の中で、最も咎むべきは時間の浪費である。」

    このように、かなり深い名言も残しているんですね。

    また、彼女の最後、ギロチン処刑される前に、「エリザベート(ルイ16世の妹)」に宛てられた遺言では、以下のように記されていました。

    (一部抜粋)

    「私は恥ずべき死刑の判決を受けたのではありません。死刑は犯罪人にとって恥ずべきもの。これはあなたの兄上に会いに行くようにという判決なのです。

    良心の咎めがないので、私は平静な気持ちです。子どもたちを残していくことだけが心残りです。

    私が生きてこられたのは、あの子たちと、やさしく親切なあなたがいらっしゃったから。

    何もかも犠牲にしてくださったあなたを、私はなんという状態のなかに残していかなければならないのでしょう。

    私は生まれてから今までに犯したすべての罪の赦しを神に願います。今までにもお祈りしてきましたし、私の最後の願いです。

    私に危害を与えた敵をみな赦します。さようなら!神に一切をお任せいたします」

以上です。

ルイ16世とマリー・アントワネットの子供達:4人が辿る運命 ~10歳で死んだ息子:「ルイ17世(ルイ・シャルル)」の残酷すぎる生涯

以下、4人の子供達(生まれた順)

  • 長女:マリー・テレーズ・シャルロット

    4人の中で、唯一成人(20歳以上)している子供です。

    だが、その生涯は決して幸せとは言えず、父親や母親が処刑されて以降、捕えられた身として2年もの間ほとんど誰とも会話をすることがなかったため、彼女は発声異常をきたしてしまい、生涯ソレは治りませんでした。

    その後も、ナポレオン政権になったことで、ヨーロッパ諸国を逃げ回り、ナポレオン退位後も、各地を転々として王族としては質素な生活が亡くなるまで続きます。

    (死んだ時は73歳だったので、かなり長生きしている)

    ちなみに、六本木ヒルズで開催された「マリー・アントワネット展」にて、展示されていた彼女の肖像画に一目惚れしてしまいまし。

    マリー・アントワネット王妃の子供:マリー・テレーズ・シャルロット-1

    (左がマリー・テレーズで、右が弟のルイ・シャルル君です)

    (母親より全然可愛いよね。)

  • 長男:ルイ・ジョゼフ

    当初は長男なので王太子として育てられますが、生まれつき身体が弱く、8歳にも満たずに病死してしまいます。

  • 次男:ルイ・シャルル

    長男の死後に王太子となり、さらに父親(ルイ16世)の死後に「ルイ17世」になりますが、その後わずか2年半で死ぬことになります。(10歳という若さ)

    このルイシャルル君が、おそらくフランス国王一族の中で最も凄惨で悲劇的な生涯を送った人物になります(詳細は、後述しています)

  • 次女:マリー・ソフィー・ベアトリス

    生後11ヶ月で亡くなった女の子です。(死因は、当時の医学では特定不可能であった。)

(4人の子供達はいずれも子を残していないため、直系の子孫はいない。)

以上、ルイ16世とマリー・アントワネットの4人の子供達ですが、僕が最も書きたかった事。読んでほしかった事が、この章です。

個人的には、アントワネットの生涯以上に衝撃を受け、興味をそそられた人物。

それが、ルイ・シャルル君(ルイ17世)です。

マリー・アントワネット王妃の息子:ルイ・シャルル(17世)-1

10歳という若さで、フランス革命の影響で犠牲になった、フランス国王一族の中で最も凄惨で悲劇的な生涯を送った男の子です。

というわけで、彼の生涯を以下にまとめてみました。

  • 幼少の頃は、何不自由なく愛情を注がれながら育つ。

    幼少の頃のルイ・シャルルは、王室の子供として、生まれた時から何不自由なく育ったといいます。

    乳母、給仕、案内係り、ゆりかご揺らし係り、用務係り、洗い物係り、洗濯係り、髪結師(かみゆいし)など、身の回りの世話をする人間が大勢いて、優雅で快適な生活を送っていたのです。

    また、

    シャルル君は、ブロンドの髪に目鼻立ちが整った碧眼(へきがん)の美しい顔立ちで、活発で愛嬌のある子供だったといいます。

    そんな魅力のあるシャルル君に、マリー・アントワネットは「愛のキャベツ」とあだ名をつけ、愛情を注いで育てました。

  • 長男の死によって、王太子となる。

    ルイシャルルが4歳の時、長男:ルイ・ジョセフが病死したため、彼が王太子を継ぎます。

  • フランス革命勃発

    ルイシャルルが王太子を継いでのち、すぐにフランス革命が勃発します。

    ここから彼の運命は、大きく傾きだします。

    革命後、数千・数万人規模の民衆によるヴェルサイユ行進が起こり、国王一家がパリのテュイルリー宮殿へ連行される際、道中、馬車の外から民衆達がアントワネットに罵声を浴びせていると、シャルル君は馬車の窓から顔を出して「ママを許してあげて!」と群集に叫び続けたといいます。

    テュイルリー宮殿での生活は、まだ家族と一緒にそこまで不自由無い生活をしていました。

    が、、

  • 8月10日事件で、タンプル塔に幽閉される

    8月10日事件の影響で、国王一家は全員タンプル塔に幽閉されていたが、一時の間は家族と一緒に過ごす事ができ、待遇もそこまで悪くなかった。

    だが、父親:ルイ16世の死刑が判決される。

    死刑日の朝 : 「お父さんを殺さないでとお願いするんだ。お願いですから国民に話す邪魔をしないでください」と、シャルル君の叫び声が牢獄に響き渡ったと言います。

    だが、それも虚しく死刑は執行され、シャルル君は名目上フランス国王(ルイ17世)に即位します。

    (当然、牢獄の中の彼に知らされる事は無く、自覚のないまま死んでいくことになりますが・・)

  • 次第に待遇が悪くなっていき、劣悪な環境へとなっていく。

    ルイ16世が処刑されたことで、タンプル塔収容者への待遇は次第に悪くなっていき、

    1793年5月の初めに高熱と脇腹の痛みを訴えたルイ17世のために、マリー・アントワネットは診察を要求したが、何度も拒否され続けた。

    その後、なんとか診察は行われ、熱は下がったが腹痛は治まらず。。以後ルイ17世は体調を崩したままとなります。

  • 家族と引き離され、監視人によって暴力や虐待がおこなわれるようになる。。

    1793/7/3、ルイ17世は家族と引き離され、一人別の部屋に移動させられた。

    そこから、さらに状況は悪くなっていく。

    そこでは、ルイ17世が着ていた喪服を脱がせられ、代わりに革命党員の制服を着用させ、革命歌や王室の家族を冒涜する言葉を教え込まれた。

    やがてそこに虐待が加わり、暴力だったり、具合が悪くなるまで無理やり酒を飲ませ続けたり、「ギロチンにかけて殺す」と脅迫させられたりして、肉体的にも精神的にも擦り減っていったルイ17世は、かつての愛嬌や快活さが消え去っていた。

  • マリー・アントワネットが処刑される

    ルイ17世は、家族とは別の部屋に収監させられていたため、母親が処刑されたことを、生前に知ることは無かった。

    彼の部屋では、「ママ、あのね・・・」という書きかけの言葉や花の絵が残されていたことや、

    塔の屋上に散歩に出かけた際に見つけた花を摘み取り、花好きの母のためにと、既に処刑されていることを知らぬまま母の部屋の前にそっと置いたといったエピソードが残されています。

  • 光も風も通さない8畳ほどの独房に移されて、人間扱いされない状況へ。。

    母親:マリー・アントワネットの処刑後、彼はさらに辛辣な環境へと身を置きます。

    まずは独房へと移されて、そこは光も風も通さない狭い部屋で、1日1回だけ、入り口の小さい窓からパンとスープが差し出されるだけでした。

    その時に生存確認されるだけで、あとは放置状態。

    暗い部屋の中で誰とも話さず、出る事もできずに孤独な日々が続いていく。

    さらに、独房内にはトイレが無かったので、ルイ17世は床で用を足すことになり、清掃や換気は全く行われなかったので、ずっとそのままの不衛生な状態で過ごすことに。。

    当然、着替え等の差し入れなんかも一切無し。

    そのような状態が数ヶ月間ずっと続き、ルイ17世は、”くる病”という病気に掛かってしまい、立つことすらできなくなってしまった。。

    8ヶ月ぶりに掃除がおこなわれた時は、糞尿や害虫・ネズミでいっぱいになっており、悪臭にまみれたその部屋で、蚤(のみ)や虱(しらみ)だらけのベッドに横たわっていたと言います。

    体にも、大きな腫れ物がいたるところにデキており、激痛を訴えていたにも関わらず、ずっと放置され続けていました。

    もはやルイ17世に、人間的な扱いをする者は誰も居なかったのです。

  • 政情の変化をキッカケに環境はだいぶ改善されたが、時すでに遅し。。。

    フランス革命によって、王族からの政権交代がおこなわれた後も、しばらく国内は不安定な状態が続き、

    反革命派(王党派)との攻防や、(革命による)ヨーロッパ諸外国からの干渉、革命派の内部分裂など、安定しない日々が続いていた。

    そんな中で、ルイ17世が独房にいる間にも、革命派のリーダーや、ルイ17世の監視係り等が処刑されたことで、彼の環境もだいぶ改善された。

    (独房に移されてから、約1年後のことである。)

    その後すぐさま医師の診断を受けることになるが、医師は彼を見て驚愕する。

    「出くわした子供は頭がおかしく、死にかけている。最も救いがたい惨状と放棄の犠牲者で、最も残忍な仕打ちを受けたのだ。私には元に戻すことができない。なんたる犯罪だ!」

    この頃のルイ17世は、栄養失調と病気のため、痩せこけた体と灰色の肌色。体中には腫れ物がいたる所にあり、目はぎょろりと生気を無くしていた。
    その後も、環境自体は改善されたのだが、衰弱がひどすぎて食事も喉を通らないほど。

    別の医師いわく : 「不運なことに援助はすべて遅すぎた、何の望みもなかった」

    そして、

    1795年6月7日、ルイ17世は夜遅くに様態が急変し瀕死の状態になってしまい、次の日の午後3時ごろ、激しい呼吸困難に陥ったのち、彼の人生は幕を閉じた。

  • 1795/6/8 : 死去。満10歳

以上です。

後半、ルイ17世が独房に移されてからの2年間は、読むのも苦しくなるほどの残酷で凄惨な状況であったことが分かります。

まだ、10歳にも満たない子供がです。。

たぶん僕は、ルイシャルル君の事を強烈な記憶として一生忘れる事は無いでしょう。

最後に・・・六本木ヒルズで開催中の、ヴェルサイユ宮殿監修:「マリー・アントワネット展」に行って、マリー・テレーズ(長女)に一目惚れしてしまった話

マリーアントワネット王妃の生涯・歴史や名言等がまとめている展示会-5

冒頭でも書いていますが、今回僕がマリー・アントワネットに興味を持って記事にまとめるキッカケとなったイベントです。

(母親と二人で行ってきました。)

200点以上もの彼女に関する美術品や愛用品・資料が展示されていて、当時、ヴェルサイユ宮殿内にあった王妃の浴室や居室が、当時とそのままに原寸大で再現されていたりと、かなり見応えのあった展示イベントでした。

というわけで、当日の模様や、僕がマリー・テレーズ(アントワネットの長女)の肖像画に一目惚れしてしまった話とかを、以下の記事にてまとめているので、良かったら見てみてください。

→ マリー・アントワネット展に行ってきた ~フェルゼンとの不倫や首飾り事件、パンがなければお菓子の真相と子供:テレーズの美貌

ではまた、じゃーねー。

マリー・アントワネット王妃の名言や歴史・生涯をまとめ終えた、ゆとり君

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