学園映画(桐島、部活やめるってよ)なんて、見るんじゃなかった、、、というお話

昨日、ある学園モノの映画(DVD)を、TSUTAYAでレンタルし視聴しました。

タイトルは、「桐島、部活やめるってよ」という、キャッチーなモノで、このタイトルからか、公開前後は、けっこう話題になっていて、

ずっと気にはなっていたんですが、結局昨日まで観る事はありませんでした。

みなさんも、知ってる方は多いんじゃないでしょうか・・

「なんで、今更・・・?」

たしかに、時代遅れ感は否めないですが、たまには良いじゃないか・・・

「淡い淡い青春時代を、思い返したかったんだよ!!」

で、、、

まぁ、僕の感じたこの映画の概要をザッと解説すると、

クラスで最も目立っている中心的グループ、いわゆるリア充組から見た、青春・恋愛・学園ドラマと、

クラスに一人はいる、根暗オタク的人物から見た、青春・恋愛・学園ドラマを、絡み合わせているストーリーとなっていて、

「桐島」というクラスの男子学生が、部活を辞めることによる、その波紋が、両者に降りかかっている様を描いた作品となっています。

(分かるかな、言いたいこと?ww)

まぁ、学園モノで良くある、友情や恋愛・部活動といった人間模様(イジメは無い)が中心となっていますが、

なんとなく、全体的に「負」の空気感が漂っていて、綺麗な水槽にヘドロを入れた時のような、濁り感を僕は感じました。

自分の青春時代を、一人の男子学生(神木君の演じる役)に投影してしまい、嫌な記憶がよみがえってきた

本作品を観た方なら、分かると思いますが、

クラスに一人はいる、根暗オタク的人物として、神木君が演じる、一人の男子学生がいます。

(この学生が、主演なわけですが)

で、この男子学生と、他のクラスメイトとのやりとりを観て、封印していた僕の記憶が、パカッと開かれ、絶望的な気分に陥りました。

桐島、部活やめるってよ シーン1

【放課後のクラス内で、秘密事を内輪でしゃべる、中心的女子グループ】

「ねーねー、まだ一人居るよ。あそこ・・・」
「大丈夫、大丈夫、あんな根暗に聞かれたって、全く問題ないって」

そう、クラスに一人いる「根暗キャラ」は、存在を無かった事にされるのである。

完全に空気のような存在。

誰からも気づかれず、誰にも届かない、、、

誰も僕の事なんか、気にしてないのに、一人で24時間緊張状態に陥る、あの感覚。

取るに足らない事、ほんの少しの事でも、クラスの空気を変えちゃいけないという、あの感覚。

消しゴムが机からこぼれ落ちた時、その消しゴムを取りに行く挙動でさえ、躊躇してしまう、あの感覚。

プリントを後ろの席に人に配るとき、あの瞬間が、どれだけ僕の体を強張らせた事か・・・

全ては、無かった事に。

そこに、誰もいないのだから、、、

「僕は人形じゃない!僕はぬいぐるみじゃない!僕は置きモノじゃない!僕は同じ人種だ」

僕が、小学校高学年の時、クラスの中心的な女子達から、頻繁に声を掛けられる時期があった。

その時、世間では、信吾ママの「オッハー」が流行語となり、数多くのガキ共が、その言葉を口にした。

僕のクラスでも、その流れは、例外なく蔓延していて、僕は、一部の女子達から、執拗にその言葉を求められた。

要は、こーゆー事だ。

僕が、「オッハー」という言葉を発する事じだいが、シュールすぎて面白おかしいのである。

ゆとり君-オッハー-1

40過ぎのオッサンが、子供たちが集まる公園の中で、一人スベリ台をスベリ出すような、そんなシュールさを、彼女らは求めていたのだ。

彼女らは、僕が「オッハー」と言うまで、どこまでも付いてきた。

しかも、その「おこない」は、さらにエスカレートしていき、「振り付きのオッハー」だったり、「3連続オッハー」だったりという行為を、僕はやらされた。

分かるだろうか・・・

朝、学校に登校し、教室のドアを開けるときの、僕の心境が・・・

ドアを開けた瞬間に、ダーツの的になったかのように、彼女らは僕に近づいてくる。。。

その時の、恐怖感が。

死刑囚が、看守に拘束されながら、ギロチンの前に行く時の心境とは、きっとああいったモノだろう。

人というのは、自分とはかけ離れた存在に対して、興味・関心を抱く生き物である。

それは、生まれてから大して日が経ってない「純粋無垢な少年・少女」ほど、顕著に出てくる。

彼女らは、まるで僕を違う人種のように・・・宇宙人と触れ合うかのごとく、僕に接していたのだ。

もう一度、言おう。

「僕は人形じゃない!僕はぬいぐるみじゃない!僕は置きモノじゃない!僕は同じ人種だ」

クラスの中心グループへの、深い深い憎しみが蘇ってきた

本編のあるシーンで、中心グループの女子が感情的になり、一瞬でクラス中が静まり返るシーンがあります。

また、中心グループの女子達と男子達が、なんの抵抗もなく戯れ合うシーンがあります。

『許せない!!!!』

あいつらは、笑いたいときに笑い、怒りたいときに怒り、泣きたいときに泣く・・・

まるで、喜怒哀楽モンスターだ。

義務教育の環境で、あれだけ自由な存在は他にいない。

そして、クラス中の空気は、あいつらの喜怒哀楽に「99%」比例する!!

・あいつらが怒れば、クラス中が「金縛り」にあったかのように緊張状態に陥り、
・あいつらが笑えば、クラス中が安堵感に包まれ、
・あいつらが泣けば、クラス中から「楽しさ」というものが消え失せる

僕のような底辺族は、あいつら喜怒哀楽モンスターの「一挙手一投足」にビクビクしながら、学園生活を過ごさなくてはならない、、

しかも、男女の戯れは、あいつらだけの特権だ!

学級ヒエラルキーのトップ階層だけが、持ちうる権利なのだ。

社会的に見ても、これだけの「格差」がある場所は、どこを探してもないだろう・・・

資本主義社会より、数万倍も残酷な世界だ。

しかも、あいつらは、大体決まってスポーツが出来る!

あいつらは、きっと知らないだろう。

サッカーボールを、蹴ろうとして空かした時の、あの死にたくなるような「はずかしさ」を。

しかも、普段 ”笑う” キャラではないから、笑ってごまかす事もできない。

当然、「テヘペロ」なんて言えるはずもない、、、

周りから ”笑い” が起きれば、まだ救われるのだが、失笑に終わった時には、一生消える事のないトラウマとなるだろう。

この世に「サッカー」という概念を作ったやつを、僕は絶対に許さない。

結局、何が伝えたかったの?

この映画を最後まで観てみて、結局、この映画は「何を伝えたかったのだろう?」と疑問を持ってしまった。

僕みたいな奴のトラウマを想起させるのが、目的だったのか・・・いやいや違うはずだ。

この映画の、最後のシーンでは、、、

「真反対の立場にいる代表的人物が、それぞれ交わる様子」が映されていた。

この時、、、僕の中での「フィクション性」が「100%」になった瞬間だった。

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