狭山事件とは?石川一雄・冤罪説の真相や真犯人。そして埼玉県狭山市へ行ってきた ~となりのトトロとの共通点・都市伝説も~

石川一雄・狭山事件の起きた埼玉県狭山市にいる男性-5

どーもー、先日、狭山事件(さやまじけん)の事件現場である埼玉県狭山市に実際に行って、被害者となった少女の学校や、加害者の住んでいた実家を見てきて、現場の町並みや雰囲気を感じ取ってきた「ゆとり」でーす。

皆さんは、この狭山事件(さやまじけん)知ってますか・・・

今(2016)から50年以上も前に起きた事件なので、おそらく知らない人がほとんどだと思います。

(以下、事件概要)

狭山事件とは・・・1963年5月1日に埼玉県狭山市で発生した、高校1年生の少女を被害者とする誘拐強姦殺人事件になります。

被害者宅に脅迫状(犯罪予告文)が送られてきたことや、被害者少女の残虐な殺され方などから、当時TVでも報道され話題に。

さらに、容疑者は当時24歳の石川一雄(いしかわ かずお)という男性で、この男性が被差別部落出身であったことから、事件は、その後おもわぬ展開へ・・・

当初容疑を認めていた石川側だったが、一審の判決で「死刑判決」が出たことをキッカケに、石川側の主張が一変。

容疑を全面的に否定し、無罪を主張。

当初容疑を認めていたのは、執拗な取り調べや、虚偽の司法取引などにより自白を強要されたことだと主張した。

結局、その後の最高裁の判決で「無期懲役」に確定してしまうのだが、この一連の裁判は、”被差別部落に起因する差別裁判” と言われ、石川を擁護する声が多数上がることに。

それから、「石川一雄君を守る会」という団体が立ち上げられ、さらに、部落解放同盟や共産党、中核派や社青同(しゃせいどう)といった政治・思想団体も「石川擁護派」として名乗りを上げ、大きな騒動・話題となった。

これらのことから、多方面で「石川一雄・冤罪説」が叫ばれるようになり、石川自身も、釈放後の今なお「冤罪被害者」であると主張し続けている。

以上が、ザッとまとめた事件の概要になりますが、上記の通り、石川が急遽主張を変えたことによって、冤罪説や真犯人が他にいる説が流れたり、被差別部落の出身だった事から、”差別裁判”と呼ばれ、複数の政治・思想団体が動いたりと、かなり複雑な事件へと発展していきます。

また、この事件は、事件関係者(被害者少女の兄や姉、事件を担当した主任検察官など)が相次いで変死をとげていて、ネット上では ”黒い噂” も流れています。

ということで、今回の記事では、この「狭山事件」の冤罪説が流れるようになった理由や、事件関係者が相次いで変死していった詳細、

そして、僕が、実際に事件が起きた埼玉県狭山市に行って、当時、被害者少女が通ってた学校や被差別部落だった場所を見学してきた事について、順にまとめていきたいと思います。

また、この事件と「となりのトトロ」のストーリーには、共通点が数多くあることから、「トトロ」は狭山事件をもとにして創作されたといった都市伝説まで出てきています。

ということで、その辺についてもまとめてみました。

以下、目次。

  • 狭山事件の時系列まとめ
  • 事件の真相 ~石川一雄・冤罪説のポイントや真犯人の存在(多数の推理説)について
  • 関係者:12人もの相次ぐ変死について
  • 狭山事件と、日本共産党・部落解放同盟団体・新左翼団体(中核派・社青同など)との関係
  • 「となりのトトロ」との関係(都市伝説)
  • 被害者少女の通っていた学校や、石川一雄が住んでいた被差別部落があった「埼玉県狭山市」へ行ってきた

狭山事件の時系列まとめ : 事件発生から石川一雄の逮捕・取り調べ・裁判 → 刑務所生活 → 仮出所 → 老後生活までの流れ

まずは、事件がおもわぬ方向へ複雑怪奇に展開していった事を理解するために、一連の流れを時系列にまとめてみました(以下)

  • 【1963/5/1 : 事件発生 + 被害者家族へ脅迫状が送られる → 狭山警察署と連携】

    埼玉県狭山市大字上赤坂(おおあざ かみあかさか)の富裕な農家の四女で、川越高校入間川(いるまがわ)分校別科1年生の少女(当時16歳)が、夜になっても帰宅せず行方不明になる。

    午後7時40分ごろ・・・長男が玄関のガラス戸に挟んであった白い封筒を発見。それは、四女の生徒手帳と共に同封されていた脅迫状であった。

    【脅迫状の内容】

    このかみにツツんでこい

    子供の命がほ知かたら五月2日の夜12時に、

    金二十万円女の人がもツてさのヤの門のところにいろ。

    友だちが車出いくからその人にわたせ。

    時が一分出もをくれたら子供の命がないとおもい。

    刑札には名知たら小供は死。

    もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにか江て気名かツたら

    子供わ西武園の池の中に死出いるからそこ江いツてみろ。

    もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにかえツて気たら

    子供わ1時かんごに車出ぶじにとどける,

    くりか江す 刑札にはなすな。

    気んじょの人にもはなすな

    子供死出死まう。

    もし金をとりにいツて、ちがう人がいたら

    そのままかえてきて、こどもわころしてヤる。

    参考元 : ウィキペディア:「狭山事件」

    ※所々、日本語がおかしいのは、加害者が被差別部落出身者で、まともな教育を受けてこず、日本語が書けなかったため。

    ※また、この時すでに誘拐されていた被害者女性は殺されていた。(後の、加害者の自供による情報)

    この脅迫状が送られた後、午後7時50分ごろ、長男は堀兼(ほりがね)駐在所に届け出、その後、駐在所から狭山警察署に連絡された。警察は誘拐事件と断定し、緊急捜査体制が取られた。

  • 【5/2 : 犯人の要求通り、待ち合わせをする】

    23時55分頃・・・脅迫状にて要求されていた通り、(被害者宅の)次女が佐野屋酒店(さのや さけてん)の前に立ち、20万円分のお金を用意して犯人を待った。

    ※お金は偽造紙幣で、付近の茶畑や民家の庭の植え込みには、張り込みの刑事が40人ほど潜んでいた。

    その後、

    午前0時15分頃に犯人が現場にあらわれたが、張り込みに気づき逃げられてしまう。

  • 【5/3 : 犯人の足取りを追い、とある「養豚場」に行きつく】

    早朝より、昨晩の犯人の足跡をたどり追っていくと、権現橋(ごんげんばし)のそばにあった養豚場に辿りつく。

    この養豚場の経営者は被差別部落出身であり、従業員も被差別部落出身者が多かった。

    養豚場は、地元では愚連隊の溜まり場として知られ、被差別部落民からも警戒されていて、権現橋は被害者少女の通学路にもなっていた。

    警察は、この養豚場にいる誰かに、目星を付ける。

  • 【5/4 : 被害者少女の遺体が発見される。】

    午前10時半ごろ・・・殺害された少女の遺体が発見される。

    遺体は狭山市大字入間川の雑木林から麦畑に出たところの農道に埋められており、遺体には目隠しがされ、首と脚にはヒモが巻かれ、手は手ぬぐいで後ろに縛られていた。

    死因は、首を絞めたことによる窒息死と断定、さらに生前に強姦されていたと鑑定結果がでる。

  • 【5/23(事件から約3週間) : 石川一雄が、別件逮捕される。さらに今回の事件の容疑者として疑われる数々の証拠が出てくる。】

    のちに、この事件の犯人として逮捕される、石川一雄

    石川は、遺体遺棄現場近くの被差別部落に住む、当時24歳の男性で、傷害や暴行・窃盗などの容疑で別件逮捕された。

    【別件逮捕の内容】

    ・1962年11月23日頃 : 愚連隊仲間と共に17歳の少年に集団暴行を加え、全治5日間の顔面打撲傷を与えた件。

    ・1963年1月7日頃 : 愚連隊仲間と共に、前出の17歳の少年に集団暴行を加えた件。ならびに、1963年2月19日頃、交通トラブルに関連して農協職員の顔面を2回殴打した件。

    ・道端の耕耘機(こううんき)からガソリンを盗んだ疑い。

    そして、この石川は、事件(5/1)の3ヶ月前まで養豚場に勤めていて、その頃から被害者少女とも顔見知りだったそう。

    (逮捕当時は鳶職(とびしょく)の手伝いをしていた。)

    また、

    同日におこなわれたポリグラフ検査(嘘発見器による検査)で、石川は、手拭・タオル・首の絞め方など9項目について、犯人しか知らない点を質問された際に、異常な反応を示している。

    さらに、被害者の遺体には他人の頭髪が付着していたが、これについて石川の頭髪と比較し、精密検査をしたところ、特徴がよく似ていることが判明、

    さらに、養豚場の経営者や従業員たち27人中21名の血液型を検査したところ、犯人の血液型とされていた「B型」は、石川ただ1人であり、

    筆跡鑑定でも、石川の筆跡が脅迫状と一致するという結果が出た。

    この時の取り調べでは、他にも以下の様な内容がまとめられている。

    ・石川の学歴:小学校5年修了。

    ・その後、鉄工所や農家の子守奉公(こもりほうこう)・靴屋の店員見習いなどの職を転々としている。

    ・最近では、1962年10月末頃から1963年2月28日まで、約4ヶ月のあいだ、養豚場に住み込みで働いていた

    ・石川の性格:短気にして粗暴(そぼう)と評され、物を投げる癖があり、同僚の目の前で、パンを焼く大きな窯(かま)に生きた猫を放り込んだこともある(動物虐待)

    ・石川に前科はなかったが、14歳の頃、友人と共に狭山市柏原(かしわばら)の民家から鳩を5~6羽盗み、狭山警察署で取り調べを受け、父親と一緒に浦和の裁判所に呼び出されたが、起訴猶予になったことがある。

    ・さらに、その翌年頃、狭山市入曽(いりそ)の農家の物置から俵を3俵盗み、やはり狭山警察署で調べられ、浦和の裁判所に呼び出されて起訴猶予になったこともある

  • 【6/17(事件から1ヶ月半) : 石川一雄を、強盗・強姦・殺人・死体遺棄容疑で再逮捕】

    別件逮捕の取調中、今回の事件についても警察は、20日以上にわたって取り調べを行ったが石川は自白をしなかった。

    そして、

    6月13日・・・窃盗・暴行・恐喝未遂などの容疑で起訴される(別件逮捕の容疑)

    この後、

    6月17日に、弁護士の保釈の申請が認められ釈放されることになるが、釈放直後に警察は、石川を強盗・強姦・殺人・死体遺棄容疑で再逮捕した。

  • 【6/23 : 自白によって犯行を認める。】

    本人の自供内容(当日の行動)

    15時50分頃・・・狭山市入間川の加佐志街道(かざし かいどう)の十字路で、自転車で学校から帰宅する途中の被害者と遭遇。

    16時半頃・・・強姦と殺人を実行。

    17時頃・・・死体処理について30分ほど思案した後、死体を芋穴(いもあな)のそばに運ぶ。

    ※石川は、偶然出くわした被害者少女に、気安く冗談をとばしてからかったが、無視されたため逆上して犯行に及んだ。と犯行理由について自白した。

  • 【7/9 : 浦和地方裁判所(現さいたま地方裁判所)に強盗・強姦・殺人・死体遺棄で追起訴する】

    警察から裁判所に追起訴された石川は、浦和拘置所に移送され、同年9月4日から始まった一審で犯行を終始認め、判決の言い渡しまで否認をしなかった。

  • 【1964/3/11(事件から、約10ヶ月) : 石川に対して、死刑判決が出る】

    この判決に対して、翌3月12日、石川は控訴し、同年4月30日に東京拘置所に送られ、場所を東京高等裁判所に移した。

  • 【1964/9/10(事件から、1年4ヶ月) : 東京高裁の控訴審・第一回公判にて、当初の自供を一変・・・「無罪」を主張する。】

    石川は、この公判にて「お手数をかけて申し訳ないが、私は●●さん(被害者の名前)を殺してはいない。このことは弁護士にも話していない」と言い放ち、執拗な取り調べや虚偽の司法取引などにより自白を強要されたことを主張し、一審で認めた犯行を全面否認した。

    ※この事がキッカケとなり、石川が被差別部落の出身であったことから、被差別部落に起因する「差別裁判」として、部落解放同盟や共産党、中核派や社青同(しゃせいどう)といった政治・思想団体が名乗りを上げ、大きな騒動・話題となった。

    さらに、「石川一雄君を守る会」(のち「石川一雄さんを守る会」)といった団体も立ち上げられ、この頃から、多方面での「石川・冤罪説」が言われるようになり、

    石川自身も以降、生涯にわたって、「冤罪被害者」であると主張し続ける。

  • 【1974/10/31(事件から、約11年半) : 東京高等裁判所が、無期懲役の判決を下す】

    東京高等裁判所は、弁護団の主張を斥(しりぞ)け「無期懲役」の判決を下す。

    ちなみに死刑判決でなかった理由については、以下のように述べている。

    「本件の犯行には偶然的な要素の重なりもあって、被告人にとって事が予期しない事態にまで発展してしまった節があると認められること、それまで前科前歴もないこと、その他一件、記録に現れた被告人に有利な諸般の情状を考量(こうりょう)すると、原判決が臨むに死刑をもってしたのは、刑の量定・重きに過ぎて妥当でない」

    この後・・

    石川の弁護団は新証拠をあげて上告したが、1977年8月9日に最高裁は上告を棄却。その結果、石川の「無期懲役」が確定し、1977年9月8日、千葉刑務所に移送された。

    ちなみに、この時の上告棄却裁判では、一連の疑惑であった、”被差別部落出身であった被告人に対し予断と偏見をもって差別的な捜査・審理・判決を行ったことは無い。” と全面的に否定している。

  • 【千葉刑務所時代 : 週一回の街宣車による激励や、1億を超える領置金】

    石川が千葉刑務所に移送されてのち、刑務所の周辺には、週1回のペースで部落解放同盟や中核派・社青同(しゃせいどう)などの支援団体が街宣車を使って、

    「冤罪事件に巻き込まれた石川さん!今日も頑張ってください!」などと大音量の拡声器で激励しにきて、それが塀の中まで明瞭に聞こえていたという。

    また、社会党の代議士が会いに来たり、カンパによる領置金が「億」を超えたりといった事でも話題となった。

  • 【1994/12/21 : 31年7ヶ月ぶりに仮出所する。】

    この仮出所は、各運動団体の圧力により、無罪主張を維持しつつ仮出所を認めさせる異例の形となる。

    また、関東地方更生保護委員会は、仮出所したことを公表したが、このことも極めて異例の形であり、。

    ※他に公表したケースは、神戸連続児童殺傷事件の加害者、元少年A(犯行当時14歳)の関東医療少年院を仮退院した事例のみである。

  • 【1995/12/18 : 石川の実家が全焼してしまう】

    仮出所後、石川は故郷の狭山市の実家に戻ったが、1995年12月18日に実家が全焼してしまう。

    その後、実家跡には部落解放同盟の「狭山再審闘争勝利現地事務所」が建てられ、事件当時の石川宅が復元保存されている。

  • 【1996/12/21 : 同じ被差別部落出身の女性と結婚する】

    もともと支援者であった徳島県の被差別部落出身の女性(狭山事件の被害者女性と同年、1947年の生まれ)と結婚する。

    その後、実家付近に8階建てのマンションを建て、不動産収入で老後を送っている。

  • 【2005/2/13 : TV の特集番組に出演、石川のロングインタビューの模様が放送された】

    「ザ・スクープ スペシャル」(テレビ朝日)で、『見えない手錠をはずして! 狭山事件42年ぶりの真実』と題した特集が組まれ、冤罪説の立場から石川のロングインタビューなどが放送された。

以上、狭山事件の時系列まとめでした。

全体の参考元 : ウィキペディア:「狭山事件」

狭山事件の真相 ~石川一雄・冤罪説のポイントや真犯人の存在(多数の推理説)について

最初に言っておくと、この事件は、一審・二審・最高裁ともに、裁判上では石川一雄を犯人とする判決が出ており、決着はついている。

だがしかし、捜査状況や証拠について不自然な点が多く、石川が被差別部落出身だったことから、彼を擁護する団体なども現れ、「石川・冤罪説」も後を絶たない。

これらの事から、この事件をモデルとして映画化までおこなわれ、多数の書籍が出版されている。その中には「真犯人」を推理したものも多数ある。(あくまでも推理の段階)

ウィキペディア:「狭山事件を題材、モデルとした作品」

では、どのような点で、石川一雄に冤罪説が挙がっているのか・・・そのポイントを以下にまとめてみた。

  1. 【発見された被害者少女のモノとされるカバンと、実際の少女の使っていたカバンが違っていた。。】

    警察が発見したカバンは革製のカバンであったが、被害者が実際に持っていたカバンは革製に見える旅行カバンであった(父親の証言)

  2. 【発見された被害者少女のモノとされる万年筆と、実際の少女の使っていた万年筆が違っていた。。】

    こちらも、カバン同様、被害者が実際に持っていたモノと、警察によって発見されたモノとが違っていた。

    (鑑定の結果、発見した万年筆は、ペン先がほとんど擦り減っていない新品同様のものであり、インクはブルーブラックだった。
    これに対して、被害者は日常的に万年筆を使っており、”擦り減っていない” という状態はおかしく、さらに、実際に使っていた方は、インクがライトブルーであった。)

    また、万年筆は加害者の部屋の勝手口の鴨居(かもい)の上から発見されるが、延べ26人で4時間以上の大掛かりな家宅捜査が2回にわたって行われたにも関わらず発見されず、、

    加害者の自供後、3回目の家宅捜査ではすぐに見つかったことが、極めて不自然とされた。

    (本当は最初から、加害者の部屋に万年筆なんて無かったのではないか・・)

  3. 【石川の筆跡鑑定結果について】

    脅迫状との筆跡鑑定のために、石川に文書を書かせてみた。

    警察は、石川に書かせた文書と脅迫状とを比べて、筆跡・句読点の使い方・文章の特徴などを鑑定してみた結果、同一人物と鑑定したが、

    学習院大学の教授や京都市教育委員会の鑑定では、別人であるという結果となった。

    また、そもそも石川には、ほとんど字の知識がない。といった矛盾点がもあった。

  4. 【被害者の遺留品や脅迫状からは、石川の指紋は検出されていなかった】

以上、これらのポイントが冤罪説となりうる主張とされた。

だが、結局これらの主張は、最高裁の判決では「冤罪説の証拠」としては認められなかった。

参考元:事件関係者が6人自殺・変死した狭山事件



次に、「真犯人」の存在について・・

コレについては諸説、噂されていて、被害者宅の元使用人(事件後すぐに自殺する)説。

養豚場の複数人による犯行説。

被害者の長兄説・・・財産争いや、被害者少女と近親相姦していた事(あくまで推測)を隠すためといった説まで上がっている。

またこの長兄説については、養豚場経営者の兄弟を雇って妹を殺害させた説や、被害者宅の元使用人を使った。といった説も上がっている。

※あくまで、どれも推理に過ぎず、現状このような事実は出てきていません。

参考元 : ウィキペディア・狭山事件:「当事件の犯行に関連する諸説」の章

狭山事件・関係者:12人もの相次ぐ変死について ~被害者少女の姉や兄

実は狭山事件には、事件以降、12人もの事件関係者が相次いで変死していったという・・・裏でナニか強大な闇の組織が蠢(うごめ)いているといった、怖い想像をしてしまう現象までおこっています。

真犯人や真相を知る者が自責の念から自殺したのか・・

あるいは口封じのために、自殺に見せかけて関係者を殺していったのか・・

自殺を偽装した謀略殺人の説も多々あがっています。

以下が、事件後、変死をとげている12人の関係者になります。

  1. 1963/5/6(遺体が発見されてから2日後) : 被害者宅の元使用人が農薬を飲んで井戸に飛び込み自殺

    この使用人は、新居を建てたばかりで、死んだ次の日が自分の結婚式であったため、非常に不自然な自殺であった。

    だが、この使用人、血液型がB型で、彼の筆跡は脅迫状のモノと良く似ていたという。

  2. 1963/5/11 : 不審な3人組の目撃情報を警察に通報した者が、包丁で自分の胸を刺して自殺

  3. 1963/5 : 石川一雄宅と同番地に住む青年(警察は彼と石川との共犯を疑っていた)が行方不明になる

  4. 1964/3/18 : 身代金受け渡しの際、被害者の姉の脇で犯人の声を聞いていた教育振興会会長が、石川の死刑判決の直後に脳出血で急死

  5. 1964/7/14(事件から1年2ヶ月ちょっと) : 被害者の姉が農薬を飲んで自殺

  6. 1966/7 : 養豚場時代の石川一雄の同僚で、同じ被差別部落に住む青年(警察は彼と石川との共犯を疑っていた)が行方不明になる

    後に、身元を隠して千葉県に移住したことが確認される。

  7. 1966/10/24 : 養豚場の経営者の長兄が、駅のホームで踏切に飛び降りて自殺

  8. 1967/2/14 : 証拠品の腕時計の発見者である男性が控訴審の途中で死亡(享年83)

  9. 1968/1/28 : 事件を担当した主任検事が、浦和市の自宅にて脳出血で急死

  10. 1970/12/25 : 石川を診察したことのある川越署 嘱託医(しょくたくい)が行方不明となる

    後に、タイの港に停泊中の船内で死亡しているのが発見される。

  11. 1977/10/4 : 被害者の次兄が首を吊って自殺

    自身の経営する中華料理店の経営不振が原因とされている。

  12. 1977/12/21 : 狭山事件を追っていたライターが暴行死

    佐木隆三:「ドキュメント狭山事件」の取材協力者として事件を追っていたルポライター集団:「文珠社(もんじゅしゃ)」のひとり片桐軍三が暴行死とも見られる変死を遂げる。

    頭骸骨の陥没や骨折、肋骨の骨折などの重症を負い死亡。

以上です。

参考元 : ウィキペディア・狭山事件:「関係者の相次ぐ変死」の章

狭山事件と、日本共産党・部落解放同盟団体・新左翼団体(中核派・社青同など)との関係

狭山事件は、石川一雄が逮捕され、裁判が一審・二審と進んでいくうちに、”部落差別裁判” として話題になっていき、それに伴って、多数の政治・思想団体と関係が出てきます。

今回は、その中でも主な4団体について、関係性を以下にまとめました。

  • 「日本共産党」

    事件発生当時、石川の兄から相談を受けた遠藤欣一(狭山市議であり日本共産党)が、日本共産党系列の自由法曹(ほうそう)団の弁護士を紹介。石川の弁護人となる。

    また、日本共産党の影響下にある団体:「日本国民救援会」などが、極貧であった石川家のために自費で支援活動をしていた。

  • 「部落解放同盟」

    石川一雄の裁判当時、この「部落解放同盟」が中心となって、”部落差別裁判” と盛んに問題提起を主張し、公正な裁判をするよう要求したり、事件現場の現地調査など、裁判に向けて多大な支援をおこなった団体である。

    1965年10月5日 : 部落解放同盟の第20回全国大会で、石川の無実を前提とする公正裁判要求をおこなう決議が出る。

    1968年10月6日 : 狭山事件第1回現地調査を行なう。

    1969年3月3日 and 4日 : 第24回全国大会で狭山事件支援の特別決議を採択し、「差別裁判」を盛んに主張するようになる。

    1969年7月10日 : 部落解放同盟の中央本部に「石川青年救援対策本部」を設置し、パンフレット:「狭山事件の真相」を発行する。

    さらに、石川の兄を部落解放同盟・埼玉県連合会の狭山支部長に迎える。

  • 新左翼団体(過激派団体):「中核派」・「社青同」

    部落解放同盟らによって、狭山事件が「差別裁判」であるとする主張が話題となっている中、新左翼団体が支援に乗り出す。

    その中には、「中核派」や「社青同」も支援に名乗りを上げ、しだいに結託を強めていく。

    このような流れの中で、

    中核派は、『狭山差別裁判を徹底糾弾し、石川一雄氏の戦いを支援する全国連絡会』(略称、狭支連)と称する団体を組織し、機関紙:「狭支連・新聞」を刊行する。

    さらに、

    1969年11月14日 : 「狭山差別裁判・糾弾」と称して浦和地裁を占拠。地裁に火炎瓶を投げ込む。

    また、

    社青同・解放派は、1974年・・・東京高裁・長官室への乱入事件や東京高裁・判事襲撃事件などを起こしている。(事件を担当する裁判官への忠告であった。)

    このように、過激派左翼団体による ”テロ行為” が問題となり事件の知名度はより広がっていった。

以上です。

参考元 : ウィキペディア:狭山事件(以下)

・「支援活動」の章
・「狭山裁判関連テロ事件の歴史」の章

ジブリ映画:「となりのトトロ」の都市伝説 ~トトロは「狭山事件」をもとに創作された?

おそらく日本人であれば、誰もが知ってるであろう国民的ジブリ映画:「となりのトトロ」

サツキやメイたち・草壁一家が、大自然あふれる田舎へ引っ越してきて、そこで、サツキやメイが不思議な生き物:「トトロ」や「まっくろくろすけ」と出会い・交流していく中で、不思議な体験をしていく模様が描かれているファンタジー作品ですが・・

子供向けのさわやか作品で、暗いシーンやシリアスなシーンなんて一切ない綺麗な物語です。

それが、この「となりのトトロ」・・・狭山事件と多くの共通点があるとして、”トトロは、狭山事件をもとに創作された・・” なんていう都市伝説がネット上で噂になっています。

実は僕も、この「狭山事件」を知ったのは、トトロがキッカケです。

では、どのような都市伝説がたってるのか?

例えば、

・トトロの舞台のモデルとなっているのは、狭山事件が起きた狭山市の近くである。

・サツキ(皐月)とメイ(May)はどちらも5月を表す名前であり、狭山事件が起きたのも5月である。

などなど・・

詳しくは、以下の記事にてまとめているので、興味のある方は確認してみてください。

→ となりのトトロ(ジブリ映画)のあらすじと、都市伝説・怖い話の真実まとめ ~メイとサツキの裏設定や、狭山事件との共通点~

当時、被害者少女の通っていた学校や、石川一雄が住んでいた被差別部落のあった「埼玉県狭山市」へ行ってきた・・

国民的アニメ:となりのトトロがきっかけで、この「狭山事件」を知った僕ですが、調べれば調べるほど、単純な誘拐殺人事件ではなく、

冤罪説であったり、被差別部落問題であったり、事件関係者の相次ぐ変死だったり、どんどん複雑怪奇に事件が展開していきます。

特に、「被差別部落」って、聞いたことはあったけど、実際にその場所に行ったこともなければ、そこで生まれ育った人と会ったこともありませんでした。

そこで、コレも何かの縁・・・イイキッカケだと思い、実際に事件の起こった、埼玉県狭山市まで行くことにしました。

以下に、事件に関係する場所をザッとピックアップしてみます。

  • 「狭山市駅(当時は、入間川駅)」

    駅の西側に、当時少女が通っていた学校があって、
    駅の東側に、石川一雄の実家や、当時働いていた養豚場などの被差別部落があるそうです。

  • 「養豚場(現在は無い)」

    当時が、石川が働いていた場所。
    不老川(としとらずがわ)という川の、権現橋(ごんげんばし)の近くにあったそうですが、現在は無くなってるようです。

  • 「被害者少女の実家(養豚場から近く)」

  • 「少女が通っていた、川越高校入間川分校(現在は廃校)」

  • 「佐野屋酒店(現在は閉店)」

    事件当時、犯人が被害者宅へ送った脅迫状で指定された「待ち合わせ場所」となった所です。

  • 「遺体の発見現場」

    遺体は、狭山市大字入間川(おおあざ いるまがわ)の雑木林から麦畑に出たところの農道に埋められていたそうです。

    ここは、三柱(みはしら)神社(荒神(こうじん)さま)の近くの場所。

  • 「石川一雄の実家」

    石川の実家は、1995年12月18日に全焼してしまったみたいですが(原因不明)、全焼後、部落解放同盟の「狭山再審闘争勝利現地事務所」として再建し、現在でもその事務所がある。

各場所の地図情報 : 狭山事件無罪の真相:「狭山事件現地調査」のリンク

とりあえず、上記にピックアップしている場所が、現在どーなってるのか・・被差別部落の場所とは、どのような雰囲気を醸し出している街なのか・・

当時マスコミは、被差別部落であった狭山市を、「犯罪の温床」・「スラム街」・「夜這いの風習が残る街」などと報道したそうです。

ということで、不安と期待を抱きながら・・いざ!

「狭山市駅」に到着。

狭山事件の起きた埼玉県狭山市:駅構内-1

とりあえず電車降りてみて、まず思ったのが、思いの外ホームが広くちゃんとしていて、利用者も多く感じた。

で、駅構内は・・

狭山事件の起きた埼玉県狭山市:駅構内-2

かなり綺麗で広々としていて、想像とは全く違っていた。

狭山事件の起きた埼玉県狭山市:駅前-5

狭山事件の起きた埼玉県狭山市:駅の西口-3

西口はこんな感じで、最近都市開発されたよう所で、ショッピングセンターなんかもあった。

ちなみに、この時、朝の9:00頃だったのだが、これから部活なのだろうか・・高校生の行き来が多く感じた。

そして、

とてもじゃないけど、当時、女子高生が誘拐されて殺され世間を震撼させた所だなんて微塵も感じさせず、きっとそんな事があったなんて知っている高校生は・・少なくとも僕の目の前を、さわやかに通りすぎていく高校生達は、誰ひとりとして知らないんだろーなーって、、そんなふうに思わせてくれるほど、平凡などこにでもある日常が広がっていた。

狭山事件の起きた埼玉県狭山市:駅の西口-4

とりあえず、僕がまず向かったのは、西口から徒歩:5分ほどの場所にある、当時被害者の少女が通っていた学校のある場所だ。

途中、かなり大きく目立った大仏さんがいた。

狭山事件の起きた埼玉県狭山市:被害者少女の学校への道のり-6

「徳林寺」という寺らしい。

狭山事件の起きた埼玉県狭山市:被害者少女の学校への道のり-7

そして・・・

以下の通りの、右側に当時学校があったらしい。

狭山事件の起きた埼玉県狭山市:被害者少女の学校-9

現在は、以下のように跡形もなくなっていた。

狭山事件の起きた埼玉県狭山市:被害者少女の学校-8

実際に行ってみると分かるのだが、この辺一帯は、かなり最近に都市開発されているなーと感じさせるほど綺麗で都市的な町並みが広がっており、大型のショッピングセンターやイベントスペースなんかがあった。

おそらく、当時の面影なんて欠片も無いのだろう。。

次に向かったのが、駅の東口側。

冤罪や真犯人説がある狭山事件の石川一雄宅へ行く道のり-10

ここ東側が、当時被差別部落だった場所だったそうだ。

たしかに、駅前では、朝からガラの悪い中年男性達がタバコを吹かしながらパチンコに並んでいて(以下)

冤罪や真犯人説がある狭山事件の石川一雄宅へ行く道のり-16

思いの外、こっち側(東側)は、そーいった中年男性や年寄りのおじいちゃんの行き来が多いように感じた。

少なくとも、あっち側(西側)とは、行き来している人達の層が違っていた。

冤罪や真犯人説がある狭山事件の石川一雄宅へ行く道のり-11

ということで、次に向かったのが、東口から徒歩:5分ほどの場所にある、石川一雄の実家。

情報では、一度90年代に全焼してしまったのだが、現在は建て直し「部落解放同盟の事務所」として機能しているらしい。

以下の通りを1つ曲がったところに、その事務所がある。(この通りだけで、昔から営業してそうな「スナック」が4・5件ほどあった。)

冤罪や真犯人説がある狭山事件の石川一雄宅へ行く道のり-15

そして、以下の通りの右側に写っているのが、当時石川が住んでいた実家である。(現在は事務所)

冤罪や真犯人説がある狭山事件の石川一雄宅-14

玄関前には大きな松の木がそびえ立ち、駐車場には黒い車が停まっていた。

見たら分かる通り、かなり立派な家だ。ちなみに表札には「石川」とちゃんと掘られていた。

冤罪や真犯人説がある狭山事件の石川一雄宅-13

辺りは民家しか無く、僕が行った時は誰も居なかったのだが、しばらく石川宅を眺めていると、

向かいの家から出てきたおじいちゃんがずっとこっちを見ていて、なんか寒気がして怖くなってきたので、そそくさとその場をあとにした。



以上です。

本当は、養豚場があった場所や、被害者少女が住んでいた家にも行きたかったのだが、時間の関係で行くことができなかった。。

実際に現地に来てみて、僕が一番思ったのが、”被差別部落だった街” だなんて全く感じさせないところだったという事。

たしかに、東口と西口とでは、歩いている人達の層が多少違っていたけど、だからといって仮に僕が「狭山事件」の事なんて全く知らなかったら、おそらくなんの違和感も感じる事は無かっただろう。

きっと、今住んでいる人達で、50代以上の高齢者以外の人達は、さやま事件の ”さ” の字も知らないだろうと思う。

当然、そこが被差別部落の場所だった。。ということも。

ではまた、じゃーねー。

事件の合った埼玉県狭山市から返ってきたゆとり君-8-1

(久々に遠出したけど、やっぱ家が一番だわ。)

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