どーもー、先日六本木ヒルズの「マリー・アントワネット展」に行って、長女:「マリー・テレーズ」に一目惚れしてしまった「ゆとり」でーす。
(アントワネットの長女:マリー・テレーズ)
皆さんは知っていますか?
時代は18世紀のヨーロッパ、神聖ローマ皇帝の皇女として生まれ、14歳の時にフランス国王:ルイ16世と政略結婚をして、ヨーロッパ諸国に名が広まるほどのファッションリーダーになる等、しばらくはヴェルサイユ宮殿にて華やかな貴族生活を送るも、時代はフランス革命期へと突入。
革命によってルイ16世一家は、牢獄へと入れられて幽閉生活を余儀なくされ、その後ルイ16世と共にギロチン処刑された女性が、「マリー・アントワネット」です。
今回僕が行ってきた展示イベントは、そんな彼女の激動の生涯を追っているイベントで、監修や主催はなんと「ヴェルサイユ宮殿」がおこなっていて、
当時、マリー・アントワネット王妃がヴェルサイユ宮殿にて愛用した食器や家具、革命期に着用していた衣服など200点あまりが展示されており、
当時、宮殿内にあった王妃のプライベート空間:「プチ・アパルトマン」の浴室、居室、図書室を、当時の装飾や家具などと共に原寸大で再現しているなど、非常に盛りだくさんで見応えのある展示イベントになっていました。
・ヴェルサイユ宮殿監修:「マリーアントワネット展」公式サイト
というわけで、今回の記事では僕がこのイベントに行ってきた模様を順にまとめていきたいと思います。
以下、目次。
- マリー・アントワネット展に行ってきた(前半)
- マリー・アントワネット展に行ってきた(後半) ~フェルゼン伯爵との不倫や、ギロチン処刑された最後!
- 最後に・・・王妃の名言:「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」の真相と、息子:ルイ・シャルル君の残酷すぎる生涯
マリー・アントワネット展に行ってきた(前半) ~ルイ16世との政略結婚と、子供(長女):マリー・テレーズの肖像画に一目惚れした話
(当日、六本木駅前。)
(普段は全く縁が無い街で、久しぶりに足を踏み入れました。正直怖いもんココ)
というわけで、さっそく会場がある六本木ヒルズへ向かいます。
森美術館(マリー・アントワネット展)への案内広告発見!
休日だったこともあり、チケット販売所はむちゃくちゃ混んでました。。
(ちなみに、チケット代は1800円。映画一回観るのと同じ料金ですね)
で、森美術館はなんと「52F」にあるということで、エレベーターの方へ。(3Fから一気に52Fへ上がります)
(エレベーターの中、空気圧の関係なのか耳が変な感じでした)
で、、エレベーターを降りたすぐ近くに、ガラス張りのレストランが。(今後行く人は、ここで食事を済ませてもイイかもですね)
そして、マリー・アントワネット展の入口付近にある超でかい案内看板が!!
(左下に写っているのが僕です)
というわけで、さっそく入っていきます。
会場内はこんな感じで、綺麗かつ気品漂うかんじで「洋風美術館」といった感じでした。
ちなみに僕が行った時は、かなり人が多く混雑していたため、列を作りながらゆっくりと進んでいきながら見ていきました。
客層の大半が、30代後半~50代くらいのオジサン・オバサンでしたが、意外にも若い20代の人もけっこういました。(カップル等)
なかには、マリーアントワネットのような近世ヨーロッパ貴族女性のコスプレをしている人もいましたね。(僕が見た中では、2人組の女性だけでしたが、)
展覧会の構成としては、アントワネットの幼少期(オーストリア時代)から、フランスに行って嫁いで王妃となり、その後「フランス革命」によって死刑になるまでの、彼女の生涯に沿って、第1章から第12章までの章立てで構成されていました。
というわけで、1~12章までのテーマ(章タイトル)と、その内容について順に紹介していきます。
-
1、「ウィーンからヴェルサイユへ、皇女から王太子妃」
皇帝フランツ1世(左)と、マリア・テレジア(右)と、12人の子供達。(中央奥のユリカゴに乗ってるのがアントワネット)
マリー・アントワネットは、ハプスブルク家の皇帝フランツ1世と、オーストリア大公マリア・テレジアの15番目の子供として生まれ、
当時(嫁ぐ前まで)は、「マリア・アントーニア・ヨーゼファ」という名前であった。
オーストリアにある宮殿:「シェーンブルン宮殿」にて幼少時代のほとんどを過ごし、その後、フランス国王:ルイ15世の孫の王太子:ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)とマリー・アントワネットとの「縁談」がまとまって、
1770年4月2日 : 14歳の若さでフランス国王太子のもとへ嫁ぎにいくのである。(政略結婚)
王太子との結婚後は、フランス革命までの約20年を、ヴェルサイユ宮殿で過ごすことになる。
ベルサイユ宮殿・・・もともとはルイ13世が「狩猟の館」として建築したものですが、1682年にルイ14世がヴェルサイユ宮殿に宮廷と政府の機能を移して、フランス絶対王政の象徴となった。(この第一章では、主にアントワネットの家族(親や兄弟)の肖像画や、ルイ家の肖像画が展示されていた。)
-
2、「王家の結婚」
(ルイ16世)
1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿の礼拝堂にて、マリー・アントワネットとルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)の結婚式が盛大に挙げられました。
ルイ・オーギュストは生真面目な性格で宮廷の規則や礼節を重んじるのに比べ、
一方のマリー・アントワネットは、自由奔放な性格で宮廷でのエチケットや礼節を守らず、読書のような真面目な活動をおろそかにして、馬に乗ったり、狩りをしたり、舞踏会や舞台公演を楽しむといった遊びや気晴らしばかりを求めていたという。
政治に関しても全くの無関心で、彼女に政治的な役割や威厳は皆無であった。
-
3、「即位 王妃マリー・アントワネット」
1774年5月10日、ルイ15世が天然痘(てんねんとう。感染病)により64歳で死去した。
これによって、ルイ・オーギュストがルイ16世に即位し、マリー・アントワネットも王妃となる。
1775年6月11日には、ルイ16世の戴冠式がシャンパーニュ地方・ランスの大聖堂で挙行される。
(この時、ルイ16世は20歳、マリー・アントワネットは19歳だった。)
王妃となった彼女の生活は、より派手さや自由奔放さがエスカレートしていき、毎晩のように夜の街にくりだしては仮面舞踏会で踊っていたといいます。
-
4、「マリー・アントワネットの子どもたち」
結婚してから8年間ものあいだ、子宝に恵まれなかったアントワネットとルイ16世だが、
1778/12/20、ついに念願の子供(女の子):マリー・テレーズ・シャルロットを出産する。
続いて、1781/10/22、王妃は待望の男の子:ルイ・ジョゼフを出産。
さらに、1785年に男の子:ルイ・シャルルを出産し、翌1786年には末娘:マリー・ソフィーが誕生した。
以下、アントワネットと3人の子供たち。
末娘:マリー・ソフィーは、生まれてから1年も経たずに亡くなってしまう。(上図のユリカゴの中に、本来入るはずだったとか。)
そして、僕がこの展覧会で一目惚れしてしまったのが、長女のマリー・テレーズちゃんです。
展覧会までは一度も顔を見た事が無かったし、気にもしてなかったですが、初めて彼女の肖像画を見た時に、しばらく立ち止まってしまいました。
「えっっ、アントワネットの子供ってこんなに可愛かったの?」
「本人より、全然可愛いじゃん。。」
ちなみに、王妃の4人の子供の中で、成人(20歳以上)するのは彼女だけです。
そして、僕がアントワネット王妃の生涯を追っていくなかで、最も気になった存在。(王妃以上に注目してしまいました)
それが、次男の「ルイシャルル君」です。
一時的にルイ17世(フランス国王)になるも、10歳という若さで亡くなっており、ルイ家史上、最も残酷で凄惨な生涯を辿った人物だと言われています。
(詳細については、最後の章にて紹介しています。)
-
5、「ファッションの女王としてのマリー・アントワネット」
1770年代、華やかな盛り上がりをみせていたパリのファッション界を10代半ばで目の当たりにしたマリー・アントワネットは、最新の流行に夢中になっていき、自身も毎晩のように派手に着飾ってオペラ座や仮面舞踏会にて豪遊していました。
その姿は、年々エスカレートしていき、彼女のドレス衣装は、スカートやフリルを何段にも重ね合わせて、派手なリボンをふんだんに取り付け、歩行が困難なほど派手で豪快ななものに。
さらに、髪型も奇抜で斬新なものにエスカレートしていき、
顔の1.5倍の高さだった盛り髪スタイルから、バラや鳥の羽根、バラを挿している花瓶、さらには庭園の模型や船の模型など、とにかく斬新で奇抜なスタイルで周囲の目を惹きつけた。
そして、これらのファッションや髪型は、フランスだけではなくヨーロッパ各国にまで広がるほどのブームになり、ファッションリーダーとしても有名になっていきました。
-
6、「王妃に仕えた家具調度品作家たち」
(寝室の壁掛け布)
マリーアントワネットは、王宮の家具や装飾にもこだわっており、自身の繊細な感性と美意識を満たすために多くの芸術家や職人が関わって、それらができていった。
そして、彼女が当時好んでいたデザインや様式は、現在でも「ルイ16世様式(なぜか王妃の名前では無かった)」として、フランス人がもっとも好きな様式となっています。
(この第六章では、上図の壁布や寝台の上掛け、燭台などの再現物が展示されていました。)
-
7、「再現された王妃のプチ・アパルトマン」
当時、ヴェルサイユ宮殿の中央棟1階にあった広大なアパルトマン(アパート)は、ルイ16世の叔母:マダム・ソフィーが亡くなった1782年以来、空室となっていた。
王妃は、そこを自分のための居室・浴室・図書室の3室からなる「プチ・アパルトマン」を作り出した。
第七章では、これらが当時のままの原寸大で再現されていました。
【居室】
王妃が実際に使っていた家具や寝台なども忠実に再現されていました。
【浴室】
(浴槽には、白いカーテンが掛けられていた)
そして、図書室については、実物による再現では無かったですが、部屋の半分を覆(おお)うぐらいの広さで、3Dプロジェクターによってバーチャルリアリティが再現されてました。
(この7章は、当時の空間再現ということで、最も力が入れられていた部分だと思います。)
-
8、「マリー・アントワネットのセーヴル磁器の食器セット」
王妃の母、マリア・テレジアは日本の漆器をこよなく愛していたようで、その趣味は娘にも受け継がれました。王妃自身もパリの美術市場で漆器を買い集めたり、ヴェルサイユ宮殿には70点あまりからなる彼女のコレクションが残されています。
第八章では、それらの一部が展示されていました。
これは、「日本」という名前が付けられた食器で、当時、新年にオーストリア大公である母親に贈ったものとされています。
以上、、
続いて、第九章から後半戦です。
マリー・アントワネット展に行ってきた(後半) ~フェルゼン伯爵との不倫や、首飾り事件の詳細、そしてギロチン処刑された最後!
-
9、「王妃の私的な離宮トリアノン」
1774年 : 夫がフランス国王:ルイ16世に即位して後、ベルサイユ宮殿の広大な敷地の一角にある離宮:「プチ・トリアノン」が、マリーアントワネットに贈呈される。
これによって、王妃はヴェルサイユ宮殿でのストレスから逃れるように、「プチ・トリアノン」に自分だけの世界を築き上げるようになっていき、
やがて彼女はこの離宮で、毎日のように仮面舞踏会を開催したり芝居を演じさせては、自分の気に入った取り巻きの貴族たちと自由気ままに遊び暮らすようになった。
その後時は経ち、1783年、王妃は離宮の庭園に大きな池を掘って、その周辺には塔や納屋、風車・酪農小屋などを建てていき、人工的に田舎村:『村落(アモー)』を作りだした。
-
10、「首飾り事件」
マリー・アントワネットの名を騙(かた)った詐欺師集団による、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルが『首飾り事件』。
この事件は、ルイ15世の治世の末期に端を発している。
550個以上のダイヤモンドから成る豪華な首飾りをデュ・バリー伯爵夫人に贈るつもりだったのだが、その完成を待たずにルイ15世は亡くなってしまう。
その後、マリー・アントワネットはこの首飾りの購入を拒否していたのだが、
ラ・モット伯爵夫人と名乗る人物が、王妃から不興を買っていたロアン枢機卿に、自分は王妃と親しい仲にある。と信じ込ませ、王妃がロアンに再び寵愛を与えるのと引き換えに、首飾り購入の仲介を希望していると嘘をついた。
それを信じてしまったロアン枢機卿は、ヴェルサイユの庭園で王妃に扮した女性と落ち合い、後日、首飾りをラ・モット夫人に託したが、共犯者たちがすぐさまイギリスに転売したため、首飾りが王妃の手に渡ることはなかった。
その後、制作した宝石細工職人たちが王妃に支払いを求めたため、スキャンダルが発覚、マリー・アントワネットは全くの無関係で被害者であるにも関わらず、
そんな事実とは相反し、フランス国内ではマリー王妃の陰謀によるものとして噂になってしまい、王妃を嫌う世論が一気に強まりフランス王政が揺らぐキッカケとなった。
-
11、「革命の動乱の中の王妃」
1789/7/14 : 王政に対する民衆の不満が爆発し反乱が続出、ついに「フランス革命」が勃発します。
革命の直接的な原因は「財政破綻」であり、マリー・アントワネット含む王家の豪遊生活や浪費癖のイメージも理由の一つでした。
まず最初に起こったのが、パリの民衆が同市にある「バスティーユ牢獄」を襲撃し、決して落ちる事は無いと言われたバスティーユ要塞が制圧されます。
現地には数千とも数万ともいわれる群衆が結集し、牢に入れられていた7人の囚人が解放されました。
そして、ついに民衆はヴェルサイユへ。
1789/10/5 : パリの広場に集まった約7000人の主婦らが「パン(食料)をよこせ!」などと叫びながら、国王一家の宮殿があるヴェルサイユに向かって行進を開始。
(当時、食糧難が社会問題となっていた。)
さらに、その後を2万の市民軍が行進した。
そして、大勢の民衆がヴェルサイユ宮殿に乱入していき、宮殿を制圧。国王一家を拘束し、パリに連行した。
その後、国王一家はしばらくの間、パリのテュイルリー宮殿に移り住むことになり、パリ市民に監視されながら暮らすことになる。
当初は混乱状態にあった王家も、時とともに落ち着いた生活を取り戻し、ヴェルサイユ時代よりむしろ私的で家族的な時間も増え、ビリヤードゲームや庭園の散歩、賑やかな食事会といった時間を楽しんでいた。
しかし、
1791年6月、逃亡を企てた国王一家はパリを抜け出すもヴァレンヌで捕らえられ、フランス国民にさらなる衝撃と怒りを与えてしまう。
・
・
・第11章では、このようなフランス革命の出来事から、「バスティーユ牢獄のミニチュア模型」や、「テュイルリー宮殿の絵画」
「ヴァレンヌで捉えられたルイ王家の姿が描かれた絵画」
そして、アントワネットの愛人であり王家の逃亡を支援した「フェルゼン伯爵」との手紙のやりとりが展示されていました。
(アントワネットが、フェルゼン伯爵へ送った手紙)
【フェルゼン伯爵と、マリー・アントワネットの不倫】
スウェーデン王:グスタフ3世の寵臣(ちょうしん)であり、次代:グスタフ4世にも仕えた政治家であり軍人のフェルゼン伯爵。
アントワネットとの出会いは、1774年1月、仮面舞踏会にて出会う。背が高く容姿端麗であったフェルゼン伯爵とアントワネットはお互いに一目惚れ。
その後、フランス国王がルイ16世となり、アントワネットが王妃となって以降も、2人の愛はますます深くなっていき、王妃の「プチ・トリアノン」は、フェルセン伯爵との関係を秘密裏に育ませる場所としても使われました。
フランス革命が勃発して以降も、王妃の故郷:オーストリアへの亡命を勧めたり、王家の逃亡(ヴァレンヌ逃亡事件)の際に支援をしたりしています。
その後も、2人は手紙を交わし続け、
1792年1月4日付の王妃からフェルゼン伯爵への手紙からは、
「あなたを狂おしいほど愛しています。一瞬たりともあなたを敬愛することをやめられません。」と綴られていたといいます。
そして、
マリー・アントワネットが処刑されると、それに比例するようにフェルセン伯爵にも暗雲が立ち込め、1792年3月にグスタフ3世が暗殺され、伯爵は政治的に失脚します。
愛する人を失って心身共に喪失していたフェルゼン伯爵ですが、それでもグスタフ4世が親政を開始すると、国王の望まれるままに1796年、復権して再びスウェーデンの外交顧問として働くようになります。
だが、その後新しく王位に就いたカール13世の王太子が、1810年に事故死すると、王位を狙った暗殺事件であるとの噂が飛び交い、暗殺の首謀者としてフェルゼン伯爵の名前が挙がりました。
本当に、彼が暗殺したのかどうか定かでは無かったのですが、
ストックホルム市内の広場で、カール13世の王太子の葬儀が行なわれたその日、葬儀に参列するために馬車で現われたフェルゼン伯爵に対して、群衆が暴動を起こし、彼を惨殺します。
そして、遺体は無残にも全裸で側溝(そっこう)に投げ捨てられました。
こうして彼の人生は幕を閉じますが、彼はスウェーデンに戻って以降も、生涯を通じて亡き王妃の事を想い続けたといいます。
-
12、「牢獄から死刑台へ」
先述のヴァレンヌ逃亡事件によって、フランス国民からの信用を完全に失ってしまったルイ王家。
そして、革命の影響によってフランス国は、他のヨーロッパ諸国との戦争にまで発展してしまう。(フランス革命戦争)
その最中に、マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立ったことで、
1792年8月10日、革命派の民衆によって「テュイルリー宮殿」が襲撃され、国王一家は囚われの身となり、タンブル塔へと幽閉されてしまう。。
そしてついに、、
1793年1月21日、フランス国王:ルイ16世は、裁判にかけられた後でギロチンにより処刑されてしまう。
さらに、
7月には王妃と次男(ルイ17世)が離別させられ、
8月2日には、「コンシェルジュリー監獄」に連行されて、10月14日には革命裁判所に出頭したが、その裁判は偽証と中傷に満ちたものであり、最初からアントワネットの死刑は決まっていた。
そして、10月16日、王妃は国家反逆罪の罪によってギロチンにより処刑させられた。(享年37歳)
(処刑前、最後の肖像画)
(以下、死刑台にのぼった時に履いていた靴)
(幽閉中に王妃が身に着けた肌着)
-
13、「殉死した王妃への崇拝」
上記で掲載している「処刑前、最後の肖像画」は、のちに王党派のいわば「聖画像」となり、ルイ18世による王政復古期の1814年からブルボン家が断絶する1830年のあいだに、前例がないほどの規模で広く流布した。
フランス国外でも画家たちが国王一家の末路を主題とする作品を広く流通させ、亡くなった王妃のイメージは、その後、ロマン主義的な崇拝の対象となっていく。
マリー・アントワネットは、ある時は悲劇のヒロインで、ある時は仮面舞踏会のファッションリーダーで、ある時はトリアノンの無邪気な酪農家であるが、いずれにしても彼女は伝説となって歴史上類を見ないほどの有名な王妃である。
以上、マリー・アントワネット展の第1章~第13章でした。
ヴェルサイユ宮殿に残っている、王妃に関連する肖像画や装飾品、その他衣服や家具などの出品作品 : 全197作品
正直、行く前は、1時間ぐらいで見終わることができるだろうと思っていたけど、とんでもない。。
入場してから出口に出るまで、2時間ほど掛かりました。
しかもそれでも、時間の問題で、最後の3章をサラッと流す程度でゆっくり見る事ができませんでした(一番重要なのに。。)
おそらく、全部をじっくり見ようと思ったら、2時間半~3時間は必要だったでしょう。
まぁ、それぐらいボリュームの濃い展覧会でした。
(会場内の人混みと、絵画や説明文を読むときの集中力とで、精神的にも体力的にもむちゃくちゃ疲れました。。)
で、展覧会の最後は、「グッズ販売コーナー」があり、
せっかくなので、マリーのクッキー(限定版)を購入。
ちなみに、一緒に来ていた母親は、かなり分厚いカタログ(2,600円、全280ページ)や、絵はがき・小物類を買っていました。
(森美術館からの夜景)
こうして、僕はマリー・テレーズ(長女)に一目惚れしたことを、母親には隠したまま家路へとついた。
最後に・・・マリー・アントワネット王妃の名言:「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」の真相と、息子:ルイ・シャルル君の残酷すぎる生涯
おそらく、王妃の事をあまり知らない人でも、この名言だけは聞いた事ある人も多いでしょう。
「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」
これは、彼女の代表的な名言で、歴史の教科書で習った人も多いかと思います。
フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際に、彼女が発したセリフとして有名な言葉ですが、
実はこのセリフ、マリー・アントワネットの言葉では無いことが、昨今になって判明しています。
彼女の事を良く思っていない貴族が、彼女の評判を貶めるために言いふらしたとか・・
この詳細についてや、彼女の他の名言、そして死ぬ前に最後に残した遺書の内容などについて、別途以下の記事にてまとめているので、良かったら見てみてください。
→ マリー・アントワネット王妃の人柄や名言・歴史~夫:ルイ16世とギロチン処刑された最後や、息子:ルイ17世の残酷すぎる生涯
また、
僕が、マリー・アントワネットの生涯を調べていく過程で、最も衝撃を受けたのが、彼女の息子である「ルイ・シャルル君」です。
父親のルイ16世が処刑されたことによって、一時的に「ルイ17世」に即位しますが、彼自身は独房の中で幽閉状態だったため、”自身が国王になった事” を知らずにこの世を去っていきます。
一人孤独に独房のなかでどのような扱いを受けたのか・・
僕は、その残酷すぎる凄惨で非人道的な扱いに、鳥肌が立つほどの衝撃を受けました。。
結局、彼は10歳という若さで、この世を去っていきます。
彼の生涯についても、上述の記事てまとめているので、ぜひ見てみてください。
ではまた、じゃーねー。
マリー(限定版)、美味しかったです。